限りなく透明に近いブルー
ドラッグとセックスと暴力に塗れた米軍基地の若者を描く
唯一無二の典型の小説
ただ作者の村上龍の体験そのものかといえばどうだろうか
「見た」ことは間違いないだろう
もちろんそれで良い
日比谷でのガードマンへの暴力とラストの方でなんとかという男が左手首をカットするシーンが出てくるが、これらはフィクションに思えた
解説の綿矢りさが書いているように、作者は、精巧なカメラ(本の中にも出てくるが)ワークで起こっていることを具に記録し続けるかのように描く
あくまで無機質に
まるで記録映画かのように
先述した二つのシーンがフィクションに思えたのは、その記録した付け加えられたようなニュアンスが見えるからである
そこに物語を入れ込もうとしたかのようである
もしそうであるならなぜ作者はそうしたか
あるいはリアルだったとしてもなぜあれを入れたのか
ドラッグでラリった世界の記録だけでは不足だと思ったのだろうか
どうしてもあの二つに違和感を覚える
後悔からくる心の痛みに加えてどこか教訓めいてもいて、単なる暴力を描いたとは思えない
最後のリリーに宛てた手紙からあの時代を懐かしがっている主人公が描かれる
驚くほどセンチメンタルである
この手紙を読んだ時、ああなるほどと思った
そういう世界を描きたかったのか、だからタイトルは限りなく透明に近いブルーなのかとも思った
ドラッグにのめり込む己は本来透明な存在でどこにも汚れがないが、その一方で、怖ろしく傷つきやすい
だからこそドラッグがやめられないし抜け出せない
無力で弱々しい自分
外側から見つめることしか出来なかった自分
もう二度と透明には戻れない自分
その後悔と心の痛みを引きずっているのだろう
これは村上龍の告白小説ではなかろうか
龍は眠る
宮部みゆきの作である
前回読んだ白夜行と同じく文量の多い作品である
なんだか似ている
どちらも心の闇、つまり世間に理解されない痛みみたいなものを描いている
と言ってもどちらもさして重くもなく、表面的に過ぎないのが残念である
サイキックなる二人の男
そんな能力を持った人間が世間から白い目で見られたり、知りたくないことを知ってしまう苦労ということもなんとはなしに理解できる
いや、多分理解できないだろう
ここに出てくる聾唖の女性と同じく
人は経験できないことは本当には理解できない
しかも経験したとしてもその本人と全く同じ体験でもない
だからこそ表面的にならざるを得ない
このようなテーマを扱うのはいいが、心の闇に踏み込む必要はない
彼らを理解しているという前提で書いてはいけない
あるいは理解すべきだという態度で
例えば、この内容でもほぼ最初の段階で論理破綻している
十六歳の少年はサイキックで、記憶を読み取れるとある
しかも人間だけでなくどんなモノからでも
ところがそれがいつの間にか記憶ではなく、読み取れるのが、思考に置き換わっている
記憶と思考は全く別物である
記憶は過去であり、思考は今である
さらにいえば記憶はイメージ=映像であり、思考は言葉である
映像から読み取ることと思考を直接聞く(知る)こととは全く異なるのである
分かりやすくいえば視覚と聴覚の違いなのだ
まず持ってそれが作者には全く分かっていない
それとあまりにもありきたりなトリック
あの封書や電話が狂言であることはすぐ分かるし、もしそうなら、誰がなんのためにと考えれば、昔の女の夫以外にないだろうことは自明の理である
なのでそれが明かされた時、逆にまさかと思った
しかもである、決定的に残念なのは必然性の乏しさである
夫は愛人である秘書と結託してこれを思いつき、ある男を雇って誘拐させたが、それを知ったサイキックの男が邪魔をして、なんとその男を殺してしまったという無茶苦茶なことになる
どうせ男を雇って妻を殺させるつもりなら狂言誘拐など全く必要がない
それこそ通り魔的犯行でもいいし、レイプ目的でもいいだろう
もちろん夫には動機がないわけではないので疑いの目は向けられるが、やった男との接点さえ見つけられず、アリバイさえあれば問題ない
狂言誘拐にしたのは、犯人が別にいるということにしたいためだろうが、動機のない主人公と金目当てでもないことがわかれば、狂言誘拐ではないかと推察されるに決まっているだろう
しかもあんな封書を出したり、男を雇って危ない橋を渡っているのだから、そちらの方がよほどバレやすいことくらい誰だって分かるはずだ
要は表層的なサイキックの心の闇とあり得ない狂言誘拐を組み合わせただけの、いかにも的ストーリーに過ぎなかった
龍は眠る
宮部みゆきの作である
前回読んだ白夜行と同じく文量の多い作品である
なんだか似ている
どちらも心の闇、つまり世間に理解されない痛みみたいなものを描いている
と言ってもどちらもさして重くもなく、表面的に過ぎないのが残念である
サイキックなる二人の男
そんな能力を持った人間が世間から白い目で見られたり、知りたくないことを知ってしまう苦労ということもなんとはなしに理解できる
いや、多分理解できないだろう
ここに出てくる聾唖の女性と同じく
人は経験できないことは本当には理解できない
しかも経験したとしてもその本人と全く同じ体験でもない
だからこそ表面的にならざるを得ない
このようなテーマを扱うのはいいが、心の闇に踏み込む必要はない
彼らを理解しているという前提で書いてはいけない
あるいは理解すべきだという態度で
例えば、この内容でもほぼ最初の段階で論理破綻している
十六歳の少年はサイキックで、記憶を読み取れるとある
しかも人間だけでなくどんなモノからでも
ところがそれがいつの間にか記憶ではなく、読み取れるのが、思考に置き換わっている
記憶と思考は全く別物である
記憶は過去であり、思考は今である
さらにいえば記憶はイメージ=映像であり、思考は言葉である
映像から読み取ることと思考を直接聞く(知る)こととは全く異なるのである
分かりやすくいえば視覚と聴覚の違いなのだ
まず持ってそれが作者には全く分かっていない
それとあまりにもありきたりなトリック
あの封書や電話が狂言であることはすぐ分かるし、もしそうなら、誰がなんのためにと考えれば、昔の女の夫以外にないだろうことは自明の理である
なのでそれが明かされた時、逆にまさかと思った
しかもである、決定的に残念なのは必然性の乏しさである
夫は愛人である秘書と結託してこれを思いつき、ある男を雇って誘拐させたが、それを知ったサイキックの男が邪魔をして、なんとその男を殺してしまったという無茶苦茶なことになる
どうせ男を雇って妻を殺させるつもりなら狂言誘拐など全く必要がない
それこそ通り魔的犯行でもいいし、レイプ目的でもいいだろう
もちろん夫には動機がないわけではないので疑いの目は向けられるが、やった男との接点さえ見つけられず、アリバイさえあれば問題ない
狂言誘拐にしたのは、犯人が別にいるということにしたいためだろうが、動機のない主人公と金目当てでもないことがわかれば、狂言誘拐ではないかと推察されるに決まっているだろう
しかもあんな封書を出したり、男を雇って危ない橋を渡っているのだから、そちらの方がよほどバレやすいことくらい誰だって分かるはずだ
要は表層的なサイキックの心の闇とあり得ない狂言誘拐を組み合わせただけの、いかにも的ストーリーに過ぎなかった
白夜行
東野圭吾の代表的な小説である
彼の作品を初めて読んだ
この手の内容は推理小説というのだろうか
解説によるとノワールとある
心の闇を描いたものという意味か
確かに単なる推理小説ではない
というのも、犯人を探す謎解き要素よりも、なぜそれをしたのかという方に力点が置かれているせいだろう
ただそれもうっすらと読めてしまう
なのでラストであっと驚くことはなく、刑事が推理を披露する段階になっても、読み手としては、ああそうだよねと確認作業のような感じになる
ある意味、素晴らしく緻密に計算された建造物的な小説でもあって、この本の醍醐味はそこにあるのではなかろうか
ただトリック的な部分はほぼ毎回同じ手口で明かされるので既視感が強い
それとリアリティがどうしても乏しい
それはもしかすると、犯人である主人公二人の心情を描かないことによって、その心の闇を浮き立たせる手法をとっているがゆえかもしれない
まるでこの二人はスーパーマンか超能力者のようなのである
なんでも見通せなんでも出来てしまう
しかも全く失敗をしない
さすがに無理がある
もう一つ、この小説にはとても大きな弱点がある
それは心の闇への共感である
確かに、母親によって金のためにだろうが体を慰みものにされていた少女と、それをしていた自分の父親及び母親と使用人の浮気を見ていた少年の心の闇はなんとなく理解はできる
しかしこの小説においてその出発点が最重要な点であって、単にそういうことがあったという背景が示されるだけでは弱いのである
そのせいか読み終えてから何か物足りないものが残る
ああなるほどねくらいで終わって、きっと明日になれば忘れてしまうくらいのものであって、大変な文量の割には読後感が軽い
本来は重いテーマなのに残念ながら軽いのである
犯人の心情が一切描かれないことがその要因でもあって、解説ではその手法を褒め称えているが果たしてそうだろうか
穿った見方をすると、解説の馳星周はその手法を嫉妬すると言いながら、その実は揶揄しているのではないのか
僕は、作者は、心情を描かないのではなく、描けない、もしくは描くことをそもそも断念したのだと推察する
描かずに済ませる手法を考えたと言った方が正解かもしれない
だからこそ緻密に計算せねばならなかった、つまりスーパーマンにならざるを得なかったわけで、人間的な葛藤があったり、そのせいで起こり得るミスや漏れが彼らに生じてはならなかったのだろう
そして最後にもう一つ
あの主人公二人は何を目的に生きてきたのかという重要な点である
金? 復讐? 幸福?
男は女にとって余計なものを自らの手を汚して排除しようとしてきた
ではそれは彼女への愛か、それとも憐れみか、あるいは共感か
では女の方はどうか
自分のブティックを持って経営する喜びはなぜでそれはどこから来るのものか
しかも寝たきりになった育ての母親を、殺さざるほどの動機を持つのはなぜか
少しでも都合の悪いものは全て殺すと描きたいだけか
無理がありすぎるだろう
全て白と黒で塗りつぶして灰色がないからそうなる
要は最も重要な部分は全て読者にお任せしたということである
すごく売れている作家だというのは理解ができる
一人でお茶をしたり、病院の待ち時間だったり、ちょっとした旅行などに携帯するならその読み易さと内容の軽さにおいて持ってこいだろうと思うからだ
ただ僕はもうこの人の作品を読むことはないだろう
そう思った
瘋癲老人日記
前から一度読んでみたいと思っていた
昭和三十五年の時代の話で、七十七歳の不能老人が、息子の嫁に欲情する話である
話自体は、何かメッセージ性のあるものでも、時代を描いたものでもない
文学的価値が高いかと言われると私には???である
面白いかと言われると面白い
つまりはそういう小説なのだろう
先日、ある小説クラスの知人と話した際、詰まるところ賞に入ったり売れたりする小説というのは、他の人が書いておらず、その人にしか書けない何かが必要だということで一致した
その典型のような小説である
まず持って主人公の老人は、とんでもない資産家であって、そこがすでにして違う
女中はもちろん、運転手や看護師なども家に常駐している
不動産と株の配当収入で暮らしている
東大の教授が往診に来る
もちろん書いている谷崎潤一郎は東大卒である
(当時の東大生が優秀であった保証はない、もちろん今もだが)
しょっちゅう歌舞伎だとかなんだとかを観に行き、一流の店で食事をする
つまりはイヤミなジジイなのである
主人公は自分のことを偏屈で天邪鬼でみたいなことを書いているが、それがまたイヤミである
当時の小説家は、基本的に働かなくても良い身分であったがゆえに、物書きにでもなろうとしたフシがある
それは僕の理解ではこうだ
恵まれすぎていることが一つ、つまり取り立ててやることがない
そのような家は色んな意味で複雑である、つまり屈折する
屈折してやることがなければ書くことくらいしかないだろう
当時は他に大した娯楽もない
まあ酒やタバコにヒロポン?あとは女、そんなとこかな
太宰治なんぞはその典型だろうし
谷崎潤一郎も似たようなものだが、屈折率とその指向性が違っていただけ
少し脱線してしまった
実はもっとエロティックな内容ではないかと思っていたのだが、意外にそうでもなかった
足を舐める程度のことだが、またそこに品みたいなものを感じさせるところがイヤミである
もちろん世の中のジジイのほとんどは息子の嫁の足など舐めない
だからこの小説が成立しているのだ
金持ちの不能のジジイが、息子の嫁の足を舐める話
ただそれだけのことである
しかもどうも実話らしいというのが肝心なところであって、フィクションではないところに読者の興味を掻き立てる
ただ、これらが成立するのは、作家の名前が売れてからであることは言うまでもない
またまた脱線してしまった
やはりこれは私小説ゆえに多くの読者を惹きつけたに違いない
倒錯した老人の性の世界なんて話は、多分に刺激的だったろう
しかも資産家で教養がある死にかけの老人という設定、これもユニークであって、例えば日本の庶民がイギリス王室のことに興味を持つみたいなことだろう
で、結論
面白く読んだが好きではない
そして谷崎潤一郎自体も嫌いである
そもそもこういう男が好きではないのだ
仮面の告白
自伝的小説だろうがどこまでが事実かは分からない
倒錯的思考と本人も書いているが、自省という名の下に、彼の中にはいくつかの人格が存在していてそのせめぎ合いが精神の葛藤を生み出している
とはいえ彼の類まれな客観的観察力と知的な洞察力及び精緻な表現力が相俟って、過剰で難解で抽象的な文章表現を可能にしている
表現は決して的確かどうかは分からない
いやそれは多分どうでも良いことなのだ
正確さなどはこの際意味を持たない
彼にとって真実であればよく、読んでいる読者が自分の理解しうる範囲でいかようにも理解すればよいことであるのだから
我々が10で表現することを、彼は3とか30で表現する
その意図はなんだろうと思う
故意にだろうか、それとも婉曲的な表現を好む、もしくは彼の性格に起因するものか
ただ言えることは、あのような表現手法によって、ある一面ではあるが、彼の作品が文学的価値を有しその評価を高めることになっているのは間違いないだろう
ただここで疑問が生じる
あのような文学的表現を誰もなし得ないが故に、その価値を過剰に高いと見做されてはいないのだろうか
描かれてある本質以上に
もちろん文学というものは、本質とその表現の両方によってその価値が決定されるものであるとするなら誰もがなし得ないというそのことだけで価値があると言っても差し支えないのかもしれない
それはたとえば、誰にも出せない高音が出せるというようなものだろう
先日、尾崎豊の息子だという歌手が「卒業」を歌っていた
声に尾崎豊の面影があるが、似て非なるものであった
残酷さを感じた
尾崎豊の声は尾崎豊にしかなく、三島由紀夫の文章は三島由紀夫にしかない
彼の「日蝕」を読んだが、彼は彼であって、つまり、尾崎豊の息子は息子であって、再来ではないのだ
難解で抽象的で過剰な文章表現だけを捉えて、三島由紀夫の再来などと軽々しく論じるべきではないだろう
平野啓一郎は平野啓一郎であって、僕は彼のクリエイティビティを高く評価するものではあるが、彼は「倒錯者」ではなく「賢い常人」であろう
発達障害者のうちには、天才的な資質が見られるそうだが、多分倒錯者の中にもそのような才能の煌めきがあるのかもしれない
あるいは「倒錯」そのものではなく、常人との比較において悩み苦しむところにその発露がある
三島は、精神と肉体が分離して生まれてきた!!!
いや、もっと言うなら、元々分離していたものが本来合体すべきところを完全には合体できないままこの世に誕生したのだ
その不完全さが彼を生涯苦しめ、彼の死を全世界に知らしめ、そして希代の小説家たらしめた
それは彼の運命だった
彼はこの世で何事かを成し遂げた
彼の早逝を悼む声もあるが、それには及ばないだろう
彼の書いたものが世界で読まれている理由はただ一つ
誰も多かれ少なかれ生まれながらに持っている不完全さが共鳴するからである
そしてもしかすると作家というものは、その分量の多さによって、その価値が決定されうるのかもしれないのだ
仮面の告白
自伝的小説だろうがどこまでが事実かは分からない
倒錯的思考と本人も書いているが、自省という名の下に、彼の中にはいくつかの人格が存在していてそのせめぎ合いが精神の葛藤を生み出している
とはいえ彼の類まれな客観的観察力と知的な洞察力及び精緻な表現力が相俟って、過剰で難解で抽象的な文章表現を可能にしている
表現は決して的確かどうかは分からない
いやそれは多分どうでも良いことなのだ
正確さなどはこの際意味を持たない
彼にとって真実であればよく、読んでいる読者が自分の理解しうる範囲でいかようにも理解すればよいことであるのだから
我々が10で表現することを、彼は3とか30で表現する
その意図はなんだろうと思う
故意にだろうか、それとも婉曲的な表現を好む、もしくは彼の性格に起因するものか
ただ言えることは、あのような表現手法によって、ある一面ではあるが、彼の作品が文学的価値を有しその評価を高めることになっているのは間違いないだろう
ただここで疑問が生じる
あのような文学的表現を誰もなし得ないが故に、その価値を過剰に高いと見做されてはいないのだろうか
描かれてある本質以上に
もちろん文学というものは、本質とその表現の両方によってその価値が決定されるものであるとするなら誰もがなし得ないというそのことだけで価値があると言っても差し支えないのかもしれない
それはたとえば、誰にも出せない高音が出せるというようなものだろう
先日、尾崎豊の息子だという歌手が「卒業」を歌っていた
声に尾崎豊の面影があるが、似て非なるものであった
残酷さを感じた
尾崎豊の声は尾崎豊にしかなく、三島由紀夫の文章は三島由紀夫にしかない
彼の「日蝕」を読んだが、彼は彼であって、つまり、尾崎豊の息子は息子であって、再来ではないのだ
難解で抽象的で過剰な文章表現だけを捉えて、三島由紀夫の再来などと軽々しく論じるべきではないだろう
平野啓一郎は平野啓一郎であって、僕は彼のクリエイティビティを高く評価するものではあるが、彼は「倒錯者」ではなく「賢い常人」であろう
発達障害者のうちには、天才的な資質が見られるそうだが、多分倒錯者の中にもそのような才能の煌めきがあるのかもしれない
あるいは「倒錯」そのものではなく、常人との比較において悩み苦しむところにその発露がある
三島は、精神と肉体が分離して生まれてきた!!!
いや、もっと言うなら、元々分離していたものが本来合体すべきところを完全には合体できないままこの世に誕生したのだ
その不完全さが彼を生涯苦しめ、彼の死を全世界に知らしめ、そして希代の小説家たらしめた
それは彼の運命だった
彼はこの世で何事かを成し遂げた
彼の早逝を悼む声もあるが、それには及ばないだろう
彼の書いたものが世界で読まれている理由はただ一つ
誰も多かれ少なかれ生まれながらに持っている不完全さが共鳴するからである
そしてもしかすると作家というものは、その分量の多さによって、その価値が決定されうるのかもしれないのだ