やはり死ぬのは、がんでよかった 中村仁一著
素晴らしい本である
前著の大往生したけりゃ医療とかかわるなも読んで納得していた
父は83歳で亡くなった
パーキンソン病を発症し、お決まりの大腿骨頸部骨折を両足やり、リハビリでなんとか一時は歩けるようになったが、その後痛みも出て結局は寝たきり生活になった
最後はこれもお決まりの肺炎を起こし死んでいった
今の高齢老人の多くの末路だろう
胃瘻は流石に断ったが、やはり医療施設であるが故になんらかの措置を施さねばならない
診療報酬が取れないからだ
結局、中心静脈栄養でチューブで栄養とか水分を入れる
親父の意識はほとんどないようだった
看護師が来て定期的に痰を吸引する
あの音がおぞましくなんとも嫌で親父は意識がないから大丈夫かなと思ったりした
とにかく楽に旅立たせてやりたかった
あの段階でもう一度元気になって話せる日が来るとはとても思えなかったからだ
もし中村先生のような場所があるなら母を説き伏せてでも親父を入れてもらっただろう
よくよく考えれば誰でもがわかることだと思う
死は避けられない
最後に足掻く必要があるのか
それは誰のためなのか
もちろん親父に聞けば1日でも長く生きたかったと言うかもしれない
楽に逝かせたいと言うのは自分の勝手な思いなのかもしれない
見ている自分が辛すぎるから
しかし同時に思うのは、中村先生も述べているし自分も同意見なのだが、現代医療は自然な転帰、つまり死だが、それを歪めてはいないかと言う点だ
ガンと戦うとか、最後の最後まで頑張るとか、諦めないとか、死んだこともない人間が都合の良いような価値観で死と死にゆくことをねじ曲げでいないだろうか
今でも忘れられない一言がある
親父が死んだ時だ
看護師だった叔母が親父に「おとうさん、よく頑張ったね」と何度も言った
きっと幾多の死を看取って来たからこそそう言う言葉が出たのだろう
頑張らないと死ねないのだ
自然に生まれて自然に死ぬ
人知の及ばない自然の深遠さの中で我々は生かされていることを忘れがちになる
ピンピンコロリと逝きたいと多くの高齢者が思っている
死ぬ直前まで誰にも迷惑かけず死ぬときはすっと死ぬ
それは自然な死ではないだろうか
医療はその自然な死をサポートするもので十分ではないだろうか
人を生まれて来たように自然に死なせてあげる
中村先生は、人は死に近づくと自然に食べ物や飲み物を撮らなくなりあたかも木が枯れるように穏やかにこの世を去ると言う
例えガンであっても
これは凄いことを指している
例えピンピンコロリだろうが、ガンだろうが心臓病だろうが、死はやってくる、そしてその死に対して人はそれなりに自然な準備がなされるのだ
それはその人が死を意識するかどうかは別としてだ
そしてそれが天命なのだろう
少し瞑想的観点から言うと、これは物体としての身体の死を意味している
意識は死なない
意識が自分の体の死を意識できるかどうかは分からない
ただ体は自然を受け入れ自然に死ぬことに順応するだけだ
もちろん体の代謝率の低下に伴い、意識も低下するだろう
そうして死への準備ができる
日本は多死社会を迎える
医療が死を真正面から捉え、生のための医療だけでなく、死のための医療を真剣に考え実行すべき時代になっていると思う
なぜなら死は生と同様誰もが経験するのだから