寒山拾得
森鴎外の代表的な短編小説だ
恥ずかしながら森鴎外の作品は初めて読んだ
これが小説かと思うほど風変わりというか、自由闊達というか、はたまたこれこそ文芸というのか・・
しかし僕が良しとする読後のインパクトは大きい
ネタバレになるが簡単なあらすじを書くと
中国の閭(りょ)という官吏、日本で言えば県知事みたいな人だが、その人が頭痛に悩まされていると、ある坊さんが玄関先に現れ、治してくれる
その治し方もつまるところ、頭痛は気の問題のような治し方で、気が頭痛から逸れれば治ったというような形
坊さんに名前を聞くと豊干(ぶかん)と言い、他に高僧を聞くと、ある寺に寒山と拾得という二人がいて、それぞれ文殊菩薩と普賢菩薩の化身だという
閭は、出張の折、その寺を訪ねる
県知事みたいな偉い人がわざわざ二人に会って丁寧に挨拶すると、二人は「豊干め、喋ったな」と笑いながら逃げていく
この話の途中にはこうある
道を求める人には、道が何たるものかを意識して真摯に求める人、道がどういうものかを知ってはいるが自ら求めようとせず、その道に達した人への盲目の尊敬を抱いている人、最後は、道に興味がなく全く求めようともしていない人の三種類があると
中国の話を書いて、一転して、この話は子供に話してもわからない、ましてや大人なら尚更だと書いている
子供とのやり取りで色々、子供から聞かれ、努力して答えるがなかなか理解されない
そして最後に、
「実はパパアも文殊なのだが、誰も拝みに来てはくれない」
という一文で終わる
何とも不思議な話である
察するに、閭という官吏は、高い位にいて人民から尊敬の眼差しで見られることに満足しているのだが、肝心の道に関しては、ただ、その道の高僧を訪ねて会うことしか思いつかず、自分から道を求めようとはしていない
つまり、道はどういう立場や地位にあろうが、自ら求めていかねばならないものだと暗に示しているのかもしれない
そして最後の一文
誰もが文殊であるという意味ではないだろうか
さも文殊に見える人が文殊なのではなく、人間の本質は須く文殊であると
それを森鴎外は分かっていて、そのような表現をあえてした
中国の故事を子供に話し聞かせ、理解されないのは大人も同じで、真理とはそういうものであると
なので閭の物語は題材にしか過ぎず、この小説の本質は、途中の道に関する考えと、最後の一文に尽きると僕は思った
もちろん違っているかもしれない
できれば森鴎外に直接尋ねてみたいところだ
それにしても不思議でインパクトのある短編である
凄いとしか言いようがない