こゝろ 夏目漱石
恥ずかしながらこの歳になって初めて読んだ
私小説かと思いきやどうもフィクションのようである
まず最初に驚いたのはこれだけの内容をよくぞフィクションで書けたものだということ
どう考えてみてもなんらかの叩き台があったに違いないと思える
まあそれは分からないから置いておくとして
代表的な書評としては、明治の精神を後世に遺す、人間のエゴイズムを描くの二つに大別されているように思える
僕としては、前者は希薄なように思える
後付けで評論家が評しただけのような気がする
以下は個人的な推論
先生なる人物との出会いや交流は実際に漱石の経験に基づいていて、「私」なる人物は漱石である(もちろん生まれなど背景は創作、漱石の生まれは今の新宿区である)
漱石自身が、先生の奥さんへの思慕があった
そして今度は先生を自分に投影し、彼の過去(つまり遺書)を創作した
Kなる者は完全なる創作であって、先生=自分との対比的に創られたキャラクターであるが、漱石の友人にモデルがいたとも取れる
ここでさらに大胆に推理する
漱石は「道」に悩んでいた
Kは、求道者であり、先生(つまり漱石)は、Kのようにはなれない己を苦悩し、呻吟し、小説に著した
Kが自死したのは、先生や惚れた娘との関係においてではない
彼はあくまでも「道」に殉じたのだ
Kは元々、どこかにそのような指向性を抱いていた
つまり死に場所を求めていた
道を求めながら悩む求道者ゆえにどう生きればよいか分からなかった
娘に惚れてしまい、それを己の弱さと取った
その弱さ故にどうしても先生に吐露せざるを得なかった
娘が先生と結ばれようが結ばれまいが、Kが娘と結ばれることはなかったし、告白さえしなかっただろうし、己の「道」が見出せない以上いずれ自死の道を選んだ
そう思うと、漱石は自分をKのように殉じたかったとも言え、つまりは、「道」に殉じて自死する人間と、エゴイズムに悩み、深い後悔の念を持って自死する人間の両方ともが自分の中にあり、それぞれの立場から描きたかった
もっと言えばどちらともがエゴイズムであるとまで思っていた
死を深く見つめたが故に、人の心の内面に深く切り込もうとした
つまりこれは、人間の持つ「恐れ」を描いている
「道」を見出せない恐れ、人に騙される恐れ、死への恐れ、女への恐れ、強い者への畏れ、貧しさへの恐れ、さまざまな恐れだ