芥川賞「この世の喜びよ」「荒地の家族」
芥川賞の二作品を読んだ
「この世の喜びよ」と「荒地の家族」
「この世の喜びよ」は、二人称を使っていて、読みにくさを感じたが、不思議なことに読み進めるうちにそれになれ心地よくもなる
大きなドラマやイベントは何もなく、ショッピングモールの中の喪服売り場に務める中年女性の話が、細やかな情景描写とともに淡々と語られる
この作品の魅力の一つはもちろんタイトルにあって、何がこの世の喜びなのだろうという疑問がずっと頭の片隅から離れない
いつか何かが起こるのだろうと思わせる
そして何も起きない
主人公には二人の娘がいて、彼女らは大人になり巣立とうとしている
一方、モールには中学生の女子がやってきていて彼女との交流が芽生える
圧巻?はラストにくる
主人公は手が離れていく娘たちに一抹の寂しさを抱いていて、それをモールにくる女子中学生につい投影して説教じみたことを言ってしまう
女子中学生は当然のように反発する
主人公は娘たちを育てた団地を思い出し、女子中学生がどう思おうと言うべきことは言おうと決意する
そしてそれを言えることこそがこの世の喜びなのだと「知る」
二人称のあなたは主人公であろう
自分が自分に語っている
驚くべき小説だと思った
これを計算しているとしたならすごいし、そうではなくセンスで書いているとしたらなおすごい
抽象画の名作を見ているような気分になった
続いて「荒地の家族」
正直に書くが、読後の印象は「嘘くさい」だった
冒頭からの植木屋の情景はリアリティがあり骨太な印象を受けた
この植木屋の主人公の男性は、最初の妻との間に幼い男の子がいるが、妻は感染症による肺炎で他界する
植木屋になるのに先輩からイジメにも似たしごきや暴力を受けても耐え抜き、独立を果たす
ところが東北大震災で植木屋の道具一切が流され散失してしまう
それでもなんとか這い上がる
そして二度目の結婚をするが、その女性との間にできた子供が流れてしまい、居た堪れなくなった女性は逃げるように家を出る
主人公は女性を追いかけるが見向きもしない
植木屋が忙しくなり、若い者を雇うが長続きせず辞めてしまう
幼馴染の男が帰ってきて、最初の妻との関係などが語られるが、その男は肺がんを病んでいていずれ亡くなる
要は、波のように押し寄せる不幸の連続であり、それを津波を思わせると評価する方もおられるようだ
私はこう思った
不幸のイベントその一つ一つは、もしかすると作者の経験か、見聞きしたものかもしれずそれ自体のリアリティは不自然ではないが、これらは本来独立していて然るべきものなのに、物語のために時系列的に並べられてしまったように感じるのだ
それがまず違和感があった第一である
次に嘘くさい感が拭えないのがどうしてだろうとずっと思っていて、はたと気づいたのは、植木屋という職業にあった
作者はこの主人公が植木屋をしているのは、やむをえないようであって、好きでもなくやっていると書いている
これを私のどこかが嘘だと思ったのだ
植木屋は職人である
職人という仕事は、仕事に惚れ込まなければ続かない
好きで好きでやる仕事である
家業を継いだとか何かの事情でやらざるを得ないとしても当初は嫌で嫌でしょうがなくても好きになる
好きにならざるを得ない
そういう仕事である
それを描けていない
つまり嘘だ
作者の受賞の言葉だか何かに、友人が植木屋で、このストーリーを考えたときにピッタリくると思ってそうしたそうだ
やっぱりと思った
選考委員の人たちの何人がわかっていただろうと思う
職人の気持ちなぞわからないのかもしれないが、もし一人でもわかっている選考委員がいたとしたら全力で受賞に反対すべきだったであろう
その理由はたった一つ
植木職人に失礼だからだ