ちょいとしつれいします

映画や本や趣味などを失礼ながら好き勝手に綴ります

仮面の告白

三島由紀夫仮面の告白を読んだ

 

自伝的小説だろうがどこまでが事実かは分からない

 

倒錯的思考と本人も書いているが、自省という名の下に、彼の中にはいくつかの人格が存在していてそのせめぎ合いが精神の葛藤を生み出している

 

とはいえ彼の類まれな客観的観察力と知的な洞察力及び精緻な表現力が相俟って、過剰で難解で抽象的な文章表現を可能にしている

 

表現は決して的確かどうかは分からない

 

いやそれは多分どうでも良いことなのだ

 

正確さなどはこの際意味を持たない

 

彼にとって真実であればよく、読んでいる読者が自分の理解しうる範囲でいかようにも理解すればよいことであるのだから

 

我々が10で表現することを、彼は3とか30で表現する

 

その意図はなんだろうと思う

 

故意にだろうか、それとも婉曲的な表現を好む、もしくは彼の性格に起因するものか

 

ただ言えることは、あのような表現手法によって、ある一面ではあるが、彼の作品が文学的価値を有しその評価を高めることになっているのは間違いないだろう

 

ただここで疑問が生じる

 

あのような文学的表現を誰もなし得ないが故に、その価値を過剰に高いと見做されてはいないのだろうか

 

描かれてある本質以上に

 

もちろん文学というものは、本質とその表現の両方によってその価値が決定されるものであるとするなら誰もがなし得ないというそのことだけで価値があると言っても差し支えないのかもしれない

 

それはたとえば、誰にも出せない高音が出せるというようなものだろう

 

先日、尾崎豊の息子だという歌手が「卒業」を歌っていた

 

声に尾崎豊の面影があるが、似て非なるものであった

 

残酷さを感じた

 

尾崎豊の声は尾崎豊にしかなく、三島由紀夫の文章は三島由紀夫にしかない

 

平野啓一郎三島由紀夫の再来と言われているそうだ

 

彼の「日蝕」を読んだが、彼は彼であって、つまり、尾崎豊の息子は息子であって、再来ではないのだ

 

難解で抽象的で過剰な文章表現だけを捉えて、三島由紀夫の再来などと軽々しく論じるべきではないだろう

 

平野啓一郎平野啓一郎であって、僕は彼のクリエイティビティを高く評価するものではあるが、彼は「倒錯者」ではなく「賢い常人」であろう

 

発達障害者のうちには、天才的な資質が見られるそうだが、多分倒錯者の中にもそのような才能の煌めきがあるのかもしれない

 

あるいは「倒錯」そのものではなく、常人との比較において悩み苦しむところにその発露がある

 

三島は、精神と肉体が分離して生まれてきた!!!

 

いや、もっと言うなら、元々分離していたものが本来合体すべきところを完全には合体できないままこの世に誕生したのだ

 

その不完全さが彼を生涯苦しめ、彼の死を全世界に知らしめ、そして希代の小説家たらしめた

 

それは彼の運命だった

 

彼はこの世で何事かを成し遂げた

 

彼の早逝を悼む声もあるが、それには及ばないだろう

 

彼の書いたものが世界で読まれている理由はただ一つ

 

誰も多かれ少なかれ生まれながらに持っている不完全さが共鳴するからである

 

そしてもしかすると作家というものは、その分量の多さによって、その価値が決定されうるのかもしれないのだ