文豪たち1
小説クラスの講師の教えは「良いものを書くには良いものを読まねばならない」である
良いものというのがまた難しいが、そこでは推薦図書がリスト化されているので、それを順番に図書館で借りてきては読んでいる
八割は純文学であって、俗にいう文豪と呼ばれる作家のものが多い
僕は不勉強で自分が小説を趣味にするなどとは夢にも思っていなかったせいもあってそのような作品をほとんど読んでいなかった
難しいだろうという食わず嫌いみたいなところもあったし、所詮、小説ではないかという舐めたところもあった
でも自分が書くようになって、表現ということの難しさと面白さを多少なりとも知って、興味が湧くようになった
ここ最近読んだものは、夏目漱石や中上健次、大江健三郎に三島由紀夫、太宰治、梶井基次郎などなど
言い方が適切かどうかわからないが、皆、心の闇を描いているように思える
僕を小説の世界に誘ってくれた友人が言うには、何不自由のない、いわゆる恵まれた人にいい小説は書けないとある人に言われたそうだ
恵まれたという意味がこれまた色々とあるだろうが、単純にお金持ちとか、物質面ではなくて、何の苦労もなく挫折も知らず、家族や友人にも恵まれ、悩みもなくほんわか生きてきたというような感じかな
面白いのは先に挙げた文豪は等しく頭が良いということである
東大ばかりで(中上健次は別)しかも文学部、さらには英文科が多い
他にも川端康成とか志賀直哉、芥川龍之介、谷崎潤一郎とかもそう
三島由紀夫だけは法学部なのでやはり政治に興味を持ったのかも
さらにいうと経済的に恵まれた家庭に育った人も多い(これも中上健次は別)
誤解を恐れず言うならば、文章を仕事にできるような人はそもそも経済的な後ろ盾がないと難しい時代だったということだろう
さらにさらにいうと、純文学の世界というのは、「誰が書いたか」という点に大きく影響されるように思える
独特で抽象的かつ難解な表現をよしとするような世界は、ともすれば読み手側に負担がかかるもので、理解したりイメージできなかったりすると、自分の読解力が足りないと思いがちである
果たしてそうだろうか
大江健三郎の「飼育」の一節にこうある
「弟と僕は酒のように血をたぎらせて笑った」
もしこんな文章表現を一般の人がしたら嘲笑されバカにされるに違いない
あえて言おう
大江健三郎だから許され高く評価されるのだ
しかも東大卒であるから
読み手がそのように読む
それだけの話なのだ
つまり文章というものは書かれた瞬間に書き手を離れ、読み手の自由裁量に委ねられるものであって、どうにもコントロールの効かない世界なのである
しかも読み手は「誰が」書いたかによって、その読み方や理解や共感や感動が大きく左右されてしまうのである
大江健三郎が東大卒ではなく、見も知らない田舎の中学卒であったら、あれほどまでに高評価を得てはいないだろうし、ましてやノーベル文学賞も取れてはいないだろう
勘違いしないで欲しいのは彼の文学のレベルを言っているのではない
先に書いた経済的な点も含めて、そのようなバックグラウンドがそれなりに重要な意味を持つと言いたいのである
もちろん悪いことでは決してない
いい悪いではなくてそれが現実であるということ