ちょいとしつれいします

映画や本や趣味などを失礼ながら好き勝手に綴ります

文豪たち2

文豪の多くは経済的に恵まれ、東大卒、しかも文学部英文科が多いと書いた

 

そのバックグラウンドが読み手に大きく影響を与えているとも書いた

 

さて、であるとしても、純粋に彼らの作品はどう凄いのであろうか

 

まず持って、基礎学力の高さに負うところの、語彙力、つまり記憶と関係していると思われるが、それが間違いなく高度である

 

もちろん文法なども本来正確だろうが、それを表現に合わせてわざと崩していたりもする

 

そして葛藤

 

葛藤とは自分が持っていないし手に入らないと知りながらそれを欲する心の欲求によって生まれるものだろう

 

あるいは後悔とか自己嫌悪、あるいはフェチズム

 

夏目漱石の「こころ」には、先生の後悔が描かれるが、あれは漱石自身のことであると思わせる

 

三島由紀夫の「金閣寺」は美に対する執着だが、己にない絶対的な美がなんであってそれを欲しても得られない葛藤として描いている

 

上記二人のこの作品に共通しているのは、私小説ではなく、実際にあった事件や、創造上のキャラに重ねて己を表現している点にある

 

プライドが高いのだろうし、ありていに書いてしまっては興醒めすることを恐れたからかもしれないが

 

その点、太宰は私小説として自分の心模様を曝け出すようなものを書いているが、何かへのアンチテーゼというか反抗心のようにも読める

 

しかし太宰の作品にもやはり弱い自分を認めながらも他を見下しているところがある

 

やはりプライドの高さが窺える

 

大江健三郎は己の内面にある闇を多分に批評的視点を持って描いている

 

話は逸れるが、誇張した比喩など、独特の表現手法は、村上春樹に通じるというか、村上春樹は大江に影響を相当受けたと思われるフシがある

 

もちろん中身はいたって軽いが、それは大江ほど村上春樹は内面に闇を持たないからだろう

 

梶井基次郎は早逝の作家で、肺結核を病んで亡くなったが、やはり死を前にした人間の視点を描いたものは有無を言わせぬ迫力がある

 

これもやはり読む側は梶井基次郎のバックグラウンドを知っているからこそでもある

 

川端康成谷崎潤一郎はフェチズムを描く

 

これもある種自分の心の闇でもあるが、大江と異なるのは批評的視点を持たない点にある

 

純粋なフェチズムであって、それぞれ明暗はあれど、東大卒の作家があれほどまでの赤裸々なフェチを描くということそのものが文学という評価にまで高めている

 

最後に志賀直哉

 

僕の最も好きな作家である

 

過剰な比喩表現もなく、ただ日常の風景や人々を淡々と描く

 

ストーリー性などもほぼない

 

ただ彼にも父との葛藤があってそれが一貫してテーマとして描かれている

 

経済的に恵まれ、健全に育った健全な頭の良い作家である

 

彼は小説の神様と呼ばれているが、不思議なことに先の文豪ほどには後世に評価されていないようにも思える

 

これはつまり作品のインパクトが他に比して弱いせいであり、読み手側理論からするとそんな恵まれた人の日常などつまらない、もっとドロドロした人間の内面や恐れを読みたいとなるのかもしれない

 

ただいずれの文豪にも共通しているのは、やはり表現方法の巧みさにある

 

語彙力と相俟って、それが彼らを文豪たらしめている要因だろう

 

それは想像力にも通じていて、彼らのイマジネーションを文章に落とし込める才覚が凄いのである

 

つまり経済力に恵まれ、葛藤をベースとして、基礎学力(記憶力)に加えて、高度なイマジネーション力を有し、それを文章化できる能力を兼ね備えているという稀有で独特なごく一部の人間を文豪と称するのである

 

では最後に中上健次(彼が文豪であるかどうかはさておいて)

 

彼は和歌山のいわゆる被差別部落出身で、大した学歴もない(早稲田を受験しようとした形跡はある)

 

彼のテーマは地と血である

 

先の文豪たちにはない極太なものを感じさせるが、その中に繊細さがあってそれが一種の魅力ともなっている

 

見かけとは違って相当にナイーブで傷つきやすい人だったように思える

 

やはり葛藤を描く

 

ただその描き方が、より原初的であって感情にストレートに訴えてくる

 

東大卒のおぼっちゃまには絶対に書けない

 

ある意味、学歴と経済はないがそれ以外は全て持っている人である

文豪たち1

小説クラスの講師の教えは「良いものを書くには良いものを読まねばならない」である

 

良いものというのがまた難しいが、そこでは推薦図書がリスト化されているので、それを順番に図書館で借りてきては読んでいる

 

八割は純文学であって、俗にいう文豪と呼ばれる作家のものが多い

 

僕は不勉強で自分が小説を趣味にするなどとは夢にも思っていなかったせいもあってそのような作品をほとんど読んでいなかった

 

難しいだろうという食わず嫌いみたいなところもあったし、所詮、小説ではないかという舐めたところもあった

 

でも自分が書くようになって、表現ということの難しさと面白さを多少なりとも知って、興味が湧くようになった

 

ここ最近読んだものは、夏目漱石中上健次大江健三郎三島由紀夫太宰治梶井基次郎などなど

 

言い方が適切かどうかわからないが、皆、心の闇を描いているように思える

 

僕を小説の世界に誘ってくれた友人が言うには、何不自由のない、いわゆる恵まれた人にいい小説は書けないとある人に言われたそうだ

 

恵まれたという意味がこれまた色々とあるだろうが、単純にお金持ちとか、物質面ではなくて、何の苦労もなく挫折も知らず、家族や友人にも恵まれ、悩みもなくほんわか生きてきたというような感じかな

 

面白いのは先に挙げた文豪は等しく頭が良いということである

 

東大ばかりで(中上健次は別)しかも文学部、さらには英文科が多い

 

他にも川端康成とか志賀直哉芥川龍之介谷崎潤一郎とかもそう

 

三島由紀夫だけは法学部なのでやはり政治に興味を持ったのかも

 

さらにいうと経済的に恵まれた家庭に育った人も多い(これも中上健次は別)

 

誤解を恐れず言うならば、文章を仕事にできるような人はそもそも経済的な後ろ盾がないと難しい時代だったということだろう

 

さらにさらにいうと、純文学の世界というのは、「誰が書いたか」という点に大きく影響されるように思える

 

独特で抽象的かつ難解な表現をよしとするような世界は、ともすれば読み手側に負担がかかるもので、理解したりイメージできなかったりすると、自分の読解力が足りないと思いがちである

 

果たしてそうだろうか

 

大江健三郎の「飼育」の一節にこうある

 

「弟と僕は酒のように血をたぎらせて笑った」

 

もしこんな文章表現を一般の人がしたら嘲笑されバカにされるに違いない

 

あえて言おう

 

大江健三郎だから許され高く評価されるのだ

 

しかも東大卒であるから

 

読み手がそのように読む

 

それだけの話なのだ

 

つまり文章というものは書かれた瞬間に書き手を離れ、読み手の自由裁量に委ねられるものであって、どうにもコントロールの効かない世界なのである

 

しかも読み手は「誰が」書いたかによって、その読み方や理解や共感や感動が大きく左右されてしまうのである

 

大江健三郎が東大卒ではなく、見も知らない田舎の中学卒であったら、あれほどまでに高評価を得てはいないだろうし、ましてやノーベル文学賞も取れてはいないだろう

 

勘違いしないで欲しいのは彼の文学のレベルを言っているのではない

 

先に書いた経済的な点も含めて、そのようなバックグラウンドがそれなりに重要な意味を持つと言いたいのである

 

もちろん悪いことでは決してない

 

いい悪いではなくてそれが現実であるということ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Sekiro 死闘踏破

死闘踏破というボス17連戦がある

 

緊張感の続く大変な戦いなのだが、それが面白い

 

とうとうそれにもハマってしまった

 

一度クリアして満足したのだけれど、またやりたくなってしまう

 

あの耽溺性はなんなのだろう

 

ギリギリの緊張感が生み出すスリル

 

生と死の狭間がもたらすえもいわれぬ喜びか

 

もう三度もクリアしているのにまたやってしまう

 

最初のうち、最大の難敵は、首無し獅子猿だった

 

二匹同時に出てくる猿にどう安定して勝てるか、いきなり爆竹3、4連発で忍殺するやり方を何度か試したが、どうにも安定しない

 

もう一匹が駆けつけてきて逃げられてしまう

 

色々考えて試した挙句、瑠璃の手裏剣で、茶色猿のHPを削り取るのが最も安定することに気づいた

 

そのために形代流しもとり、形代が20で不足する備えもとった

 

最初の首無し猿を忍殺して、茶色猿が現れた瞬間から瑠璃手裏剣を打ち込む

 

首無しをかわしながらもさらに打ち込む

 

隙があれば直接、何度か斬ってさらにHPを削る

 

大切なのは決して無理をしないこと

 

少し油断するとどちらの猿の攻撃も、二回くらいでこちらがやられてしまう

 

HPさえ削り切れれば、あとは上手く近づいて斬れば忍殺ができる

 

残った首無しはなんの問題もない

 

首無しが安定したら今度は、剣聖と心中一心の二段回目がやはり安定しない

 

あのタイミングがずれる攻撃への弾きがどうしても難しい

 

なのでヒットアンドウエイで戦うことにした

 

剣聖の方は、ジャンプ攻撃ばかりなので、躱して攻撃さえしていれば良い

 

心中は、右手を上げた後の下段から続く攻撃を左にジャンプして避け、その後の回転斬りは距離を取ってから、近づいて斬る、突きの場合は危が出たのを見て、見切れば良い

 

これで安定した

 

そして最後は、心中弦一郎が立ちはだかる

 

最大の僕の弱点は、ジャンプしてからの斬り落としに、毎回安定して対応できないことにあって、受け損なって大ダメージを食らうということが多い

 

その後慌ててしまい、回復をしようと距離を取れば、一気に詰められて、三連撃でやられてしまうというパターン

 

雷に対してはほぼ完全に返せるので、攻撃と防御のバランスを間違えないことにあると気づいた

 

これが安定すれば、死闘踏破は何度でもクリアできるようになるだろう

 

しかしこんなにハマるとは

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Sekiro 死闘踏破

死闘踏破というボス17連戦がある

 

緊張感の続く大変な戦いなのだが、それが面白い

 

とうとうそれにもハマってしまった

 

一度クリアして満足したのだけれど、またやりたくなってしまう

 

あの耽溺性はなんなのだろう

 

ギリギリの緊張感が生み出すスリル

 

生と死の狭間がもたらすえもいわれぬ喜びか

 

もう三度もクリアしているのにまたやってしまう

 

最初のうち、最大の難敵は、首無し獅子猿だった

 

二匹同時に出てくる猿にどう安定して勝てるか、いきなり爆竹3、4連発で忍殺するやり方を何度か試したが、どうにも安定しない

 

もう一匹が駆けつけてきて逃げられてしまう

 

色々考えて試した挙句、瑠璃の手裏剣で、茶色猿のHPを削り取るのが最も安定することに気づいた

 

そのために形代流しもとり、形代が20で不足する備えもとった

 

最初の首無し猿を忍殺して、茶色猿が現れた瞬間から瑠璃手裏剣を打ち込む

 

首無しをかわしながらもさらに打ち込む

 

隙があれば直接、何度か斬ってさらにHPを削る

 

大切なのは決して無理をしないこと

 

少し油断するとどちらの猿の攻撃も、二回くらいでこちらがやられてしまう

 

HPさえ削り切れれば、あとは上手く近づいて斬れば忍殺ができる

 

残った首無しはなんの問題もない

 

首無しが安定したら今度は、剣聖と心中一心の二段回目がやはり安定しない

 

あのタイミングがずれる攻撃への弾きがどうしても難しい

 

なのでヒットアンドウエイで戦うことにした

 

剣聖の方は、ジャンプ攻撃ばかりなので、躱して攻撃さえしていれば良い

 

心中は、右手を上げた後の下段から続く攻撃を左にジャンプして避け、その後の回転斬りは距離を取ってから、近づいて斬る、突きの場合は危が出たのを見て、見切れば良い

 

これで安定した

 

そして最後は、心中弦一郎が立ちはだかる

 

最大の僕の弱点は、ジャンプしてからの斬り落としに、毎回安定して対応できないことにあって、受け損なって大ダメージを食らうということが多い

 

その後慌ててしまい、回復をしようと距離を取れば、一気に詰められて、三連撃でやられてしまうというパターン

 

雷に対してはほぼ完全に返せるので、攻撃と防御のバランスを間違えないことにあると気づいた

 

これが安定すれば、死闘踏破は何度でもクリアできるようになるだろう

 

しかしこんなにハマるとは

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PS5でSekiro

アマゾンで、申し込んでいたPS5が買えると連絡が来たので思わずポチッとしてしまった

 

すぐその後で後悔してキャンセルしたが間に合わなかった

 

欲しくて申し込んでいたのだが6万円ものお金がもったいなくなったのだ

 

まだまだPS4で十分ではないかと思い直したこともある

 

Sekiroはすでに3周が終わっていて、ボスとの連戦も突破、最後に死闘踏破というボス17連戦を残すのみとなっていた

 

心中シリーズの3人など確実に勝てるようになるために練習している最中だった

 

PS5が届いて、Sekiroを読み込ませ、やろうとしたらニューゲームしかできない

 

確かにセーブデータはPS4に残っていると気づいてやってしまったと思った

 

ネットで調べるとセーブデータはPS5に移動できるとあり一安心

 

それぞれを繋いでデータを引き継ごうとしたのだが、なぜかセーブデータが消えている

 

手順を間違えたか、他のいらないデータを消した時に一緒に消してしまったか

 

どれだけ探してもないのだ

 

目の前が真っ暗になった

 

あれだけ苦労したSekiroのデータがない、、、、

 

でも僕の切り替えは早かった

 

しょうがない、PS5で最初からやるしかない

 

僕には一つのプランがあった

 

それは舞面を完成させ、スキルポイントを全振りして攻め力を高めること

 

というのも、スキルポイントはそれほど重要なものにも振らねばならないことが多く勿体無いなと思っていたから

 

一方、舞面ならスキルポイント5で攻め力が1上がる

 

50あれば一気に攻め力が10上げられる計算だ

 

これを試したくなったのだ

 

確かに欲しいスキルはいくつかはあるがこれを後回しにして、絶対必要なのは、見切りだけだから後は振らないことにした

 

今、中盤だがすでに36貯まっている

 

弦の宮に行けば面が完成する

 

Sekiroには、経験値を上げて有利に戦うなどの方策がないとされているが、この方法なら攻撃力は敵レベルを大きく凌げるのではないだろうかと密かにニンマリしているのだ

 

ということでPS5でSekiroをやっているのだが、ロードが早くてストレスがない反面、コントローラーが重くて使いにくいのが難点である

 

特にSekiroはR1を連打するのだがそれが押しにくい

 

なので僕はあえてPS4のコントローラーをPS5に繋げてやっている

 

いずれ自分の使い易いPS5用のサードパーティコントローラーが出たら買おうかなと思ってる

 

まだまだSekiroは楽しめそうだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芥川賞「この世の喜びよ」「荒地の家族」

芥川賞の二作品を読んだ

 

「この世の喜びよ」と「荒地の家族」

 

「この世の喜びよ」は、二人称を使っていて、読みにくさを感じたが、不思議なことに読み進めるうちにそれになれ心地よくもなる

 

大きなドラマやイベントは何もなく、ショッピングモールの中の喪服売り場に務める中年女性の話が、細やかな情景描写とともに淡々と語られる

 

この作品の魅力の一つはもちろんタイトルにあって、何がこの世の喜びなのだろうという疑問がずっと頭の片隅から離れない

 

いつか何かが起こるのだろうと思わせる

 

そして何も起きない

 

主人公には二人の娘がいて、彼女らは大人になり巣立とうとしている

 

一方、モールには中学生の女子がやってきていて彼女との交流が芽生える

 

圧巻?はラストにくる

 

主人公は手が離れていく娘たちに一抹の寂しさを抱いていて、それをモールにくる女子中学生につい投影して説教じみたことを言ってしまう

 

女子中学生は当然のように反発する

 

主人公は娘たちを育てた団地を思い出し、女子中学生がどう思おうと言うべきことは言おうと決意する

 

そしてそれを言えることこそがこの世の喜びなのだと「知る」

 

二人称のあなたは主人公であろう

 

自分が自分に語っている

 

驚くべき小説だと思った

 

これを計算しているとしたならすごいし、そうではなくセンスで書いているとしたらなおすごい

 

抽象画の名作を見ているような気分になった

 

続いて「荒地の家族」

 

正直に書くが、読後の印象は「嘘くさい」だった

 

冒頭からの植木屋の情景はリアリティがあり骨太な印象を受けた

 

この植木屋の主人公の男性は、最初の妻との間に幼い男の子がいるが、妻は感染症による肺炎で他界する

 

植木屋になるのに先輩からイジメにも似たしごきや暴力を受けても耐え抜き、独立を果たす

 

ところが東北大震災で植木屋の道具一切が流され散失してしまう

 

それでもなんとか這い上がる

 

そして二度目の結婚をするが、その女性との間にできた子供が流れてしまい、居た堪れなくなった女性は逃げるように家を出る

 

主人公は女性を追いかけるが見向きもしない

 

植木屋が忙しくなり、若い者を雇うが長続きせず辞めてしまう

 

幼馴染の男が帰ってきて、最初の妻との関係などが語られるが、その男は肺がんを病んでいていずれ亡くなる

 

要は、波のように押し寄せる不幸の連続であり、それを津波を思わせると評価する方もおられるようだ

 

私はこう思った

 

不幸のイベントその一つ一つは、もしかすると作者の経験か、見聞きしたものかもしれずそれ自体のリアリティは不自然ではないが、これらは本来独立していて然るべきものなのに、物語のために時系列的に並べられてしまったように感じるのだ

 

それがまず違和感があった第一である

 

次に嘘くさい感が拭えないのがどうしてだろうとずっと思っていて、はたと気づいたのは、植木屋という職業にあった

 

作者はこの主人公が植木屋をしているのは、やむをえないようであって、好きでもなくやっていると書いている

 

これを私のどこかが嘘だと思ったのだ

 

植木屋は職人である

 

職人という仕事は、仕事に惚れ込まなければ続かない

 

好きで好きでやる仕事である

 

家業を継いだとか何かの事情でやらざるを得ないとしても当初は嫌で嫌でしょうがなくても好きになる

 

好きにならざるを得ない

 

そういう仕事である

 

それを描けていない

 

つまり嘘だ

 

作者の受賞の言葉だか何かに、友人が植木屋で、このストーリーを考えたときにピッタリくると思ってそうしたそうだ

 

やっぱりと思った

 

選考委員の人たちの何人がわかっていただろうと思う

 

職人の気持ちなぞわからないのかもしれないが、もし一人でもわかっている選考委員がいたとしたら全力で受賞に反対すべきだったであろう

 

その理由はたった一つ

 

植木職人に失礼だからだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こゝろ 夏目漱石

恥ずかしながらこの歳になって初めて読んだ

 

私小説かと思いきやどうもフィクションのようである

 

まず最初に驚いたのはこれだけの内容をよくぞフィクションで書けたものだということ

 

どう考えてみてもなんらかの叩き台があったに違いないと思える

 

まあそれは分からないから置いておくとして

 

代表的な書評としては、明治の精神を後世に遺す、人間のエゴイズムを描くの二つに大別されているように思える

 

僕としては、前者は希薄なように思える

 

後付けで評論家が評しただけのような気がする

 

以下は個人的な推論

 

先生なる人物との出会いや交流は実際に漱石の経験に基づいていて、「私」なる人物は漱石である(もちろん生まれなど背景は創作、漱石の生まれは今の新宿区である)

 

漱石自身が、先生の奥さんへの思慕があった

 

そして今度は先生を自分に投影し、彼の過去(つまり遺書)を創作した

 

Kなる者は完全なる創作であって、先生=自分との対比的に創られたキャラクターであるが、漱石の友人にモデルがいたとも取れる

 

ここでさらに大胆に推理する

 

漱石は「道」に悩んでいた

 

Kは、求道者であり、先生(つまり漱石)は、Kのようにはなれない己を苦悩し、呻吟し、小説に著した

 

Kが自死したのは、先生や惚れた娘との関係においてではない

 

彼はあくまでも「道」に殉じたのだ

 

Kは元々、どこかにそのような指向性を抱いていた

 

つまり死に場所を求めていた

 

道を求めながら悩む求道者ゆえにどう生きればよいか分からなかった

 

娘に惚れてしまい、それを己の弱さと取った

 

その弱さ故にどうしても先生に吐露せざるを得なかった

 

娘が先生と結ばれようが結ばれまいが、Kが娘と結ばれることはなかったし、告白さえしなかっただろうし、己の「道」が見出せない以上いずれ自死の道を選んだ

 

そう思うと、漱石は自分をKのように殉じたかったとも言え、つまりは、「道」に殉じて自死する人間と、エゴイズムに悩み、深い後悔の念を持って自死する人間の両方ともが自分の中にあり、それぞれの立場から描きたかった

 

もっと言えばどちらともがエゴイズムであるとまで思っていた

 

漱石は「こゝろ」書く前に、死の淵を彷徨っている

 

死を深く見つめたが故に、人の心の内面に深く切り込もうとした

 

つまりこれは、人間の持つ「恐れ」を描いている

 

「道」を見出せない恐れ、人に騙される恐れ、死への恐れ、女への恐れ、強い者への畏れ、貧しさへの恐れ、さまざまな恐れだ